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和歌山県移民史・人物

工野 儀兵衛(くの ぎへえ)

安政元年 ( 1854 年 ) ~大正 6 年 ( 1917 年 )
日高郡美浜町 生まれ


くのぎへい肖像写真

安政元年( 1854 年)、三尾村(現:美浜町)に生まれる。14 歳で京都の宮大工の棟梁に弟子入り、19 歳のとき三尾村に帰り弟子を迎え、棟梁として本格的に仕事を始める。明治 16 年( 1883 年)頃、村に防波堤建設が計画され、土木技術に長けた儀兵衛は入札に応じたがまとまらなかった。そんな時、外国航路で働いていた従弟から誘いを受け、カナダへの夢を抱くようになる。明治 19 年( 1886 年)、海外雄飛のため横浜へ向かう。海外航路の船員達からカナダのスティブストンは農業や漁業の将来性があるという話を聞き、カナダ行きを決意。
明治 21 年( 1888 年)横浜を出航して、カナダ・バンクーバーに到着した。フレザー河を上る鮭の大群に驚き、「フレザー河にサケが湧く」 と三尾村に報告した。漁業の将来性を見て村人を呼び寄せ、以後三尾からの移民は毎年数十名を数える。多くの村民を移民させた儀兵衛は、カナダで食料品店兼旅館(村民の下宿所)を経営し、移民生活に貢献した。明治 44 年( 1911 年)12 月、持病のリューマチが悪化したため、財産を佳二郎に譲り、孫の雪子とともに帰国。大正 6 年( 1917 年)8 月 12 日、病状が悪化し満 63 歳で亡くなった。
儀兵衛の呼び寄せに始まるカナダ移民は、「カナダの三尾村」を作り、母村は「アメリカ村」と呼ばれるようになった。移民によって村の財政を支えるほどになり、周辺の経済や文化に大きな影響を与えた。また、カナダ太平洋岸の鮭漁業の発展に大きく貢献した。この功績を称え、昭和 6 年( 1931 年)、郷里に顕彰碑が建立された。また、平成元年( 1989 年)にはカナダ和歌山県人会によりスティブストンのフレザー河畔に「工野庭園」が造園され、リッチモンド市に寄贈された。




佐藤 虎次郎(さとう とらじろう)

元治元年 ( 1864 年 ) ~昭和 3 年 ( 1928 年 )
本泉村 (現:埼玉県本庄市) 出身


さとうとらじろう肖像写真

元治元年( 1864 年)、本泉村(現:埼玉県本庄市)に生まれる。旧姓は茂木。庄屋を営む茂木太平の三男。横浜の実業家原家に仕えて貿易の修業をしながら商法と英語を学ぶ。海外遊学の志を抱き、明治 18 年 ( 1885 ) 渡米。明治 23 年 ( 1890年 ) にミシガン州立大学を卒業した後も現地にとどまり、野中の一家屋を格安で借り受け、自炊し、演説活動をしていた。そこに、ミシガン州立農学校を中退した南方熊楠がころがりこみ、虎次郎の世話になっていたという。虎次郎と南方熊楠は、その後も親友としての付き合いを続けていった。
明治 24 年 ( 1891年 ) 和歌山県東牟婁郡高池町 ( 現:古座川町 ) の材木商の娘おくと結婚、養子として和歌山県に移り住む。明治 26 年 ( 1893年 )、外務大臣陸奥宗光の嘱託を受けて、オーストラリアでの移民の実態を調査。帰国後、オーストラリア進出を決意し、町の青年たちを率いてクイーンズランド州の木曜島 ( サースデーアイランド ) に移り、「佐藤商店」として幅広く事業を行った。特に、洋服の高級ボタンや工芸品に用いられる白蝶貝の採取事業では、和歌山県紀南地方出身の優秀なダイバーの働きでその実権を握り、「木曜島のキング」と呼ばれるようになる。しかし、日清戦争後、日本人事業家に対する圧力が強くなり、移民制限法が制定されたため、やむなく帰国する。妻おくは体調を崩し、帰国の船の上で亡くなった。
明治 36 年 ( 1903年 )、第 8 回総選挙に群馬県から立候補して当選。また、横浜新聞を創刊するなど幅広い活動を行う。明治 43 年 ( 1910年 )、朝鮮半島に渡り農林業を経営。大正 15 年 ( 1926年 )、故李王殿下弔問の帰途、金虎門前で凶徒に襲撃され、この傷が原因となり、昭和 3 年 ( 1928年 )、京城で亡くなった。
和歌山県のオーストラリア移民に関して、恩人とも言える人物である。




ヘンリー 杉本(ヘンリー すぎもと)

明治 33 年( 1900 年) ~ 平成 2 年( 1990 年)
海草郡湊村(現和歌山市)生まれ


へんりーすぎもと肖像写真

ヘンリー杉本は、明治 33 年( 1900 年)、海草郡湊村(現和歌山市)に生まれた。日本名は杉本謙。幼少のころから絵を描くことに才能を発揮していたが、和歌山中学校(現県立桐蔭高校)在校中は、水泳などのスポーツに情熱を燃やしていたという。和歌山中学校修業後 19 歳で両親が住む米国に呼び寄せられ渡った。当時、アメリカに渡った日本人は農業従事者として働く者が多かったが、杉本は画家を志し、オークランド芸術大学を卒業した。昭和 4 年( 1929 年)パリ留学中に新人の登竜門であるサロン・ドートンヌに入選、昭和 7 年( 1932 年)にサンフランシスコ世界博覧会美術展で金賞を受賞する等めざましい活躍を繰り広げた。
昭和 16 年( 1941 年)の日米開戦による強制立退き命令を受け、カリフォルニア州フレズノ集合所に入所し、数ヶ月後、数千キロ離れたアーカソー州ジェローム収容所に移り、後にロワー収容所に移った。この時収容所内の生活などを描いた作品は、歴史的記録として戦後注目を浴びるところとなった。これらの絵画は戦後 35 年経た昭和 55 年( 1980 年) にようやく日本で公開された。平成 2 年( 1990 年)、ニューヨークにおいて逝去された。




竹中 儀助 (たけなか ぎすけ)

明治 22 年 ( 1889 年) ~ 昭和 40 年 ( 1965 年)
白浜町 生まれ


たけなかぎすけ肖像写真

明治 22 年( 1889 年)、西牟婁郡東富田村(現:白浜町)に生まれる。大正 4 年( 1915 年)、満州に渡り、大豆カスなどの肥料、穀物の卸小売をする。その後、和歌山61連隊歩兵として入営するために帰国し、昭和 4 年( 1929 年)、ブラジル移民を決意。サンパウロ近郊のアララアクワラ線サンタ・エルネスチーナ耕地に入植した。
昭和 6 年( 1931 年)、アルマンゼサン海外興業会社に入社し、商事部主任に起用された。竹中儀助は、ここで、新たに肥料部を設け、これを中心に販売網を広げていった。誠意とまじめさで大きな信用を得て、昭和 20 年( 1945 年)に独立。その後、肥料、農薬、農機具の商社「竹中商店」を設立し昭和 29 年( 1954 年)、「株式会社竹中商会」に改組する。サンパウロ市郊外の田園地帯は酸性土壌であり、日本から燐酸肥料を取り寄せた。現地住民には肥料の効能を説明し、適切な取扱法を指導した。また、病害虫に対しては抗生物質を取り寄せ、動力噴霧器を使用して散布方法を指導した。さらに、日本の農業技師を招いて、各地に農業指導に巡回し土壌検査や幻灯機を使って技術の説明をした。こうした一連のサービスにより、竹中商会の事業は順調にすすみ、ブラジル国内各地に支店を置くほどになった。
昭和 28 年( 1953 年)7 月、和歌山県は死者・行方不明者 1,000 人を超える大水害を被る。この被害に遭った人々を救済する方策のひとつとして、県はブラジルヘ移民を送り出すことを計画。受入機関として設立された和歌山不動産株式会社では、自ら社長となり移民を暖かく迎え、親身になって就職の世話や経営指導を行った。さらに、在伯和歌山県人会会長として、移民たちの世話に尽くした。




本多 和一郎 ( ほんだ わいちろう )

嘉永 5 年 ( 1852 年)~ 明治 28 年 ( 1895 年)
紀の川市(旧:打田町) 生まれ


ほんだわいちろう肖像写真

嘉永5年(1852)、那賀郡池田村東大井(現在の紀の川市打田町)の豪農、本多楠三郎の長男として生まれた。学問を好み、19歳で上京。医師の書生として住み込み、家事を手伝いながら慶応義塾に学んだ。明治が始まったばかりの頃、和一郎は、欧米の新思想を福沢諭吉、新島襄等から学び取ったのである。明治13年(1880)、帰郷。伝法院根来寺恵光院に郷土青年の育英のための私塾「共修学舎」開く。さらに、青年たちに世界情勢を論じて新進の精神を鼓舞すべく渡米相談所として「米国遊学事務所」を設け、アメリカ渡航を奨励する。塾生には、渡米推進者で貿易商の堂本誉之進と園芸家の憲太郎兄弟、米国で洗礼を受け沖野岩三郎らを育てた神学博士の滝本幸吉郎、ハワイで法律事務所を開設し日本人労働者の労働条件改善に貢献した根来源之などがおり、移民して活躍した人物を輩出している。
また、和一郎は、大石與平の勧めで聖書を学習し、自分ひとりの宝としておくべきではないと考え、伝道を開始する。そして、和歌山市の洋々館で洗礼を受けることになった。当時はまた、自由民権運動のさかんな時代であった。和歌山県の自由民権運動は、豪農を中心とするもので、地租改正反対運動をきかっけにした粉河騒動を契機に盛り上がっていた。共修学舎は、自由民権運動の指導者、片岡健吉、中島信行らの注目するところとなり、片岡健吉日記には、1881年(明治14年)3月31日に彼らが共修学舎を立ち寄ったという記録がある。しかし、和一郎は積極的な運動家ではなかったようである。むしろ、那賀郡の運動が、児玉仲児と中西光三郎・千田軍之助の両派に分かれて争っているのを調停しようと苦慮したようであった。
和一郎は、農学校の設立を企画し、実農実学を確立させたいと思い、構想を練っていた。校長には内村鑑三を招こうと考えていたが、結局、彼の招聘も農学校も実現しなかった。和一郎は、体が弱かった。和一郎が石橋久吉あてに出した書簡にはこう記されている。

「小生ハ身体薄弱ナレドモ志の薄弱ナルコトハ最モ好マザル所ナリ」

和一郎は、1895年(明治28年)、43才で亡くなった。
池田村北大井(現在の紀の川市打田町北大井)の阿弥陀寺には本多和一郎の頌徳碑がある。




松原 安太郎(まつばら やすたろう)

明治 25 年 ( 1892 年 ) ~ 昭和 36 年( 1961 年)
みなべ町 生まれ


まつばらやすたろう肖像写真

明治 25 年( 1892 年)、日高郡岩代村(現:みなべ町)に生まれる。1912 年(大正元年)、広島県の呉海兵団機関兵として入営し、第一次大戦では巡洋艦矢矧(やはぎ)乗組員として日独戦に出征した。南洋、オセアニア方面で活躍し、カロリン群島占領の功によって勳八等桐葉章を授与された。除隊後結婚し、大正 7 年( 1918 年)9 月、長崎港から讃岐丸でブラジルへ渡った。同年 10 月に到着し、パウリスタ線ピラチニンガ駅サンタ・カタリーナ耕地に配属された。 2 年後、ビヤード耕地の通訳に推薦されて勤務する傍ら、ここで借地し日雇いを入れて綿花の栽培を始めた。その後、事業は飛躍的に発展し大農主の地位を築いたのであった。
第二次世界大戦後の日本は、空襲でほとんどの工場は破壊され、そのうえ、海外からの引き揚げ者等で人口は急増し、食糧難、就職難、インフレ等未曾有の経済危機を迎えていた。このような時、安太郎は親交のあったブラジルの時の大統領ゼツリオ・ヴァルガスの協力により、昭和 27 年( 1952 年)、中部ブラジル 4 か所(マトグロッソ州、ミナス・ジェライス州、バイーア州、マラニョン州)に 8 年計画で 4 千戸、2 万人の日本人移民入植計画(いわゆる「松原計画」)をブラジル国移植民審議会に申請し承認を得る。同年 11 月、松原安太郎は日本を訪問した。天皇陛下に拝謁し、松原案の実行について、政府の要人と折衝した。日本政府は、この朗報に急遽対策を講じ、移民の募集の意向を固めた。そこで、いち早く受けて立ったのが和歌山県であった。和歌山県は、昭和 28 年( 1953 年)に、移民課を新設し、移民を行政の立場から支援したのである。一方、ドラードスやウナの入植地から逃げ出す者が相次いだ。これによって、ブラジル政府から損害賠償を求められ、解決がつくまでは松原計画を中止するといった声もでてきた。さらに、ヴァルガス大統領が自殺し、松原計画はその後思うようには運ばなくなったのである。
安太郎は、晩年、持病の高血圧症に悩み、昭和 29 年( 1954 年)に帰国し、郷里の南部町で静かに余生を送ることになった。そして、1961 年(昭和 36 年) 12 月 5 日朝、病状が悪化し、自宅で妻のまつにみとられながら、息を引きとった。
戦後日本人のブラジル移民再開に尽くした功績は大きく、「移民の父」と称された。




南 弥右衛門(みなみ やえもん)

明治 12 年( 1879 年)~昭和 48 年( 1973 年)
すさみ町 生まれ


みなみやえもん肖像写真

明治 12 年( 1879 年)、西牟婁郡江住村(現:すさみ町)に生まれる。明治 38 年( 1905 年)ハワイを経てサンフランシスコに上陸、その後、サンタマリア平原に入り、ガダループのユニオン精糖株式会社の農園で砂糖大根栽培に従事する。大正 6 年( 1917 年)に独立、レタス、カリフラワー、セロリの栽培に目をつけ、実直な性格もあって、事業を拡大していく。
昭和 4 年( 1929 年)、南父子農業商会を設立、販路はシカゴやニューヨークにまで及んだという。野菜は市価の変動が激しい。南弥右衛門は、全米にわたる作物の流通状況、作柄、天候など様々な要素を勘案し、常に適切な判断をして事業を行った。特にレタスは年間で連続耕作が可能で、広大な設備を駆使し、市場の出荷情勢を見極めた上で有利に取引が行われた。南弥右衛門が「レタス王」と呼ばれるようになったゆえんである。弥右衛門は南加中央産業組合長として在米邦人の経済的発展に努め、また、米国中央日本人会会長として社会的事業にも貢献した。
南父子農業商会は、昭和 16 年( 1941 年)の日米開戦により事業が出来なくなるが、長男弥太郎は終戦を待たずしてコロラド州で農業を再開することになった。冬の寒さが厳しく、慣れない土地での苦難が続き、終戦となった。
1946 年(昭和 21 年)末に、南弥右衛門一家はコロラド州での農業を切り上げて帰還した。ガダループのはずれに 80 エーカーの農地を親日地主から借地し農業を再開した。排日感情が強い中での再開であったが 10 年ほどで耕作面積は戦前の 5000 エーカーには及ばないものの、2000 エーカーに達した。レタス、セロリー、ブロッコリー等は、戦前の市場よりはるかに広く全米のほとんどの都市に出荷されるようになった。
弥右衛門は、戦前から郷里の小学校に多くの貢献をし、特に終戦直後の物資不足時には児童のために学用品を送り続けた。江住中学校の体育館の建設費は、ほとんどが南弥右衛門の寄付によるものである。
在米移民の功労者であり、郷里に多大な貢献をした弥右衛門は、昭和 48 年( 1973 年)、米国カリフォルニアにて 93 歳で亡くなった。江住小学校には、郷土の偉人を称え、胸像が建立されている。




湯浅 銀之助(ゆあさ ぎんのすけ)

明治 2 年( 1869 年)~大正 15 年( 1926 年)
紀の川市(旧:粉河町)生まれ


ゆあさぎんのすけ肖像写真

明治 2 年( 1869 年)、那賀郡荒見村(現:紀の川市)に生まれる。明治 23 年( 1890 年)みかん輸出のため渡米、翌年、サクラメントで果樹園の農業に従事する。その後、サンフランシスコやサンノゼなどを行き来し、オークランドに居住していた津田立一と和歌山県出身者で構成する 「紀友会」 を創立する。
明治 30 年( 1897 年)当時、ロサンゼルスには、300 人ほどの在留日本人がいたが、日本から遠く離れた土地に暮らす同胞のために、当地における最初の日本語定期刊行物となる雑誌 「新日本」 を創刊する。明治 35 年( 1902 年)には、サンフランシスコの日米新聞社と交渉して支社をロサンゼルスに設置し、自らその主任に就き 「羅府日本」 を創刊する。新聞等の機関紙の発行を通して、在留日本人の発展に全力を注いだ。
また、米国西海岸の日系人による漁業振興にも大きく貢献、まぐろやさけの新たな味覚を開拓し缶詰によって普及させるなど、羅府缶詰会社の社長として長年にわたって活躍する。 明治 44 年( 1911 年)に組織された 「南加和歌山県人会」 では、大正 11 年( 1922 年)まで会長を務め、会の運営と発展に尽力する。
大正 13 年( 1924 年)、排日移民法が成立し日本人移民の米国入国が全面禁止される。この問題に対し東奔西走、帰国して政府関係者と会談するなど苦心し続ける。和歌山県人の指導者であっただけでなく、在留日本人の発展に努めた銀之助は、大正 15 年( 1926 年)、57 歳で亡くなった。ロサンゼルスには、南加在留日本人のリーダー・先覚者としての功績を称え、頌徳碑が建てられている。




和田 勇(わだ いさむ)

明治40年(1907年)~平成13年(2001年)
アメリカ合衆国ワシントン州ベリングハム生まれ

アメリカワシントン州ベリングハムで、日系二世(フレッド・イサム・ワダ)として生まれた。4 歳の時、妹と共に母親によって日本に連れられてきた。和歌山の祖父母のもとで暮らし、9 歳で再び米国へ戻った。父親と共に、サンベドロのターミナル島で働き、牛乳配達や雑役夫をしながら学校に通った。17 歳の時、農作物の小売りチェーン店に移り、一年で店長に抜擢され、21 歳の時、オークランドで農産物店を開いた。店の運営は多難であったが、社会活動に協力するなどして、アメリカ人社会に溶け込む姿勢を貫いていった。
太平洋戦争中は、大統領令 9066 号によりアメリカ西海岸にすむ日系人は強制収用となっていくのであるが、和田勇は近隣市民とユタ州へ集団移住した。荒れ地を開拓して農業を始めたが苦労の連続であった。戦後は、ロサンゼルスに移って青果店を開いた。顧客の求める新鮮な農産物を仕入れ、陳列する商品の選定、陳列場所の商品ごとの比率などを工夫し、きめ細かい顧客サービスで事業は順調に伸びていった。
昭和 24 年( 1949 年)、日本水泳連盟が国際水泳連盟に復帰加盟し、日本人の全米水泳大会出場が実現した際、自宅を提供して日本人選手を支えた。昭和 33 年( 1958 年)、日本水泳連盟会長から、1964 年に東京でオリンピックを開催したいという話を聞かされた。開催決定については、各国の同意が要る。その時、和田勇自ら、関係各国へ出向いていくことを表明したという。岸首相から東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれ、自費でヨーロッパや中南米の国際オリンピック委員を訪問し、開催に大きく貢献した。
昭和 44 年( 1969 年) 1 月、和田勇はロサンゼルス市長から、ロサンゼルス港湾委員会委員長に任命され、ロサンゼルスと日本の主な貿易港との取引に尽力している。
和田勇は、晩年、日系人引退者ホームの建設と運営に情熱を燃やした。日系人一世はパイオニアである。見知らぬ土地で言葉もわからず、文化や習慣が違う社会で苦労を重ねてきた人たちである。仕事を引退し、また介護が必要となった一世の人たちに安心して生活していってもらいたいと、和田勇は願った。 昭和 59 年( 1984 年)、日系社会福祉財団を組織し、看護施設、老人ホームの建設など、日系社会のために我が身を捧げた人物として、吉川英治文化賞を受賞した。
平成 13 年( 2001 年)、ロサンゼルスで亡くなった。平成 16 年( 2004 年)、御坊市初の名誉市民となる。




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